思わぬところで太田省吾さんの名前を目にして、果てに新時代のブレヒトについて考えた。

太田省吾とAR


先日読んでいた本の冒頭に、太田省吾さんの名前が登場してちょっと驚きました。
AR三兄弟の川田十夢さんが書いた『AR三兄弟の企画書』という本です。

AR三兄弟の企画書

AR三兄弟の企画書

たぶん、本としてはビジネス書にカテゴライズされます。


AR三兄弟、っていうのはこの本の扉の説明によれば

プログラム・玩具・物語・テレビ・映画・ラジオ・音楽・自然現象など、ユニークな題材をマッシュアップすることで、メディアの可能性を拡張し続けている未来開発ユニット。その活動は多方面で反響を呼び、やまだかつてないクリエイター像をうっかり築いている。

とありますが、要は、ARの技術を用いていろんな面白いことをやっている人たちです。


たとえば、こんなふうにTwitterのつぶやきをARで表示したり、

東のエデン』とコラボしたり、

スマイレージのCMに登場したりもしています。


そんな彼らが(っていっても書いてるのは長男の川田さんですが)自ら活動を振り返り、何を考え、これから何をしていくのかを語ったのがこの『AR三兄弟の企画書』というわけです。たぶん。


で、この本の第一章にいきなりこうあります。

斬新とは省略すること。
僕がARを人に説明する時、必ず引用する言葉があります。「斬新とは省略すること。」太田省吾という劇作家の言葉です。

ここで川田さんは太田省吾がいかに言葉を「省略」することで、無言劇という新しいジャンルを切り開いたか、簡単に説明しています。では、これがARとどう関係するんでしょう?


ARのインパクトをわかりやすく世のなかに広げた「セカイカメラ」について、川田さんはこんなふうに説明します。
たとえば、街に出てかっこよさげなバンドのポスターを見て、そのバンドの曲を聴きたくなったときの行動です。


【AR浸透前】は

ポスターを発見する

バンド名をメモする

検索する

検索結果の中から該当のサイトを探す

目的のサイトにたどり着く

バンドの音源が聴けるリンクを探す

該当のリンクをクリックする

音源を聴く


こんな手順を踏んでいたのが、【AR浸透後】になると、

ポスターを発見する

カメラをかざす

音源を聴く

というステップで済んでしまいます。


セカイカメラの斬新さは、実はこの省略にある、と喝破するわけです。
セカイカメラのことが初めて世に出たとき、「超近未来的!」とか「SFの時代が来た!」とか、パッと見でそんなふうに思ってしまうわけですが、その斬新さの本質は「省略」にあったと。くーかっこいい!


実際、このことは、いろんなものにあてはまります。


インターネット。これはマスメディアっていう大きな組織を「省略」して情報を届けられる仕組みです。
そんなインターネットによって登場したiTunes。これはCDの製作から流通までを「省略」して音楽が聴ける仕組みです。


斬新とは省略すること。
これが太田省吾さんの言葉、というのがぐっときます。
って知らなかったんですが。演劇論集パラパラっとめくったけど見つからなかったYO!


すごく演劇っぽいけどAR三兄弟はアートじゃなーい


さて、実は本題はここからです。
ARの斬新さを説明するのに、なぜわざわざ太田省吾の言葉を川田さんはひいているのか。
いやもちろん好きだからなんですが、それだけじゃないです。たぶん。


この第一章の最後に「何がARをメジャーにしなかったのか」という項があります。
ARってものすごい画期的だけど、なんで今まであんまり広まってないの? という疑問。
それに対して、川田さんはこう記します。

AR技術がVRなどの既存技術と完全に差別化するために必要不可欠な要素、それは身体表現とのフレキシブルな同期です。どのアプリも研究も素晴らしいのに、それを自分自身の言葉や行動で伝えるプレイヤーがいなかったのです。ARのユニークなところは、そのリアルタイム性にあります。人間の発する何かと連動していないと、それをパフォーマンスとして見せる人がいないと、その技術的な面白みは半減してしまう。


どわーーーーってなる、この感覚!!
最初は意識してませんでしたが、読んでるうちに、この人の演劇的なセンスは相当なんぢゃないか?! ってテンションがあがってきました。
実際、「考えた結果、僕自身がパフォーマンスとしてシステムを体験している様を壇上で見せればいいのではないかという結論に達しました」とのこと。
もう、ほとんど演劇。
そりゃ太田省吾が好きだってのも、うなずけます。
他にも、悪魔のしるしの危口さんや、寺山修司の名前がこの本には登場します。


さらにさらに、川田さんは、こんなことまで言ってのけます。

凄くて優れたモノは、それなりのステージでそれなりの評価を得るものですが、それは逆に伝播の対象を狭めることにもつながります。
例えば、アートとして作品を出した時点で、アートの文脈でしか伝わらない。


またしても、どわーーーーってなる!!
たとえばこのAR三兄弟、吾妻橋ダンスクロッシングに出演していてもなんかよさそう、って勝手に思っちゃいますが、それはやらない。いやオファーがあったらやるのかな。
それはともかく。


別にアートの文脈でやることが悪いわけじゃないです。ちっとも。
ただ、このAR三兄弟、すごく刺激的な演劇的なパフォーマンスをやってのけているのに、平然とアートの文脈ではやらないと言ってしまうので、どちらかといえば(いや思いっきり?)アートの文脈にいるペニノとしては、アートの文脈でやることの意義を考えざるを得ないぞやべーよ、ってちょい焦っちゃうわけです。
いや、ある程度ちゃんと考えてるんですけどね。もちろんタニノも。


もしかしてAR三兄弟ってブレヒトっぽい?


さらーに、思いっきり飛躍しまっせー。


いやなんか、AR三兄弟ってブレヒトっぽくないですか・・・?


えどこが?! ってなりますよね。いや実際、思いつきもいいとこです。
ただ、ブレヒトの叙事的演劇って、異化効果の仕組みがビルトインされてたわけですよね。
だったら「AR=拡張現実」って思いっきり現実を「異化」してるぢゃん!! って思っちゃいません・・・?


ブレヒトの劇では、異化効果によって、観客が舞台上に起きてることから距離を取れるようにしていました。
その距離が、観客が劇に「参加」する余地として機能していたそうです。


一方、ARで覗いたセカイが舞台のようなものだとしたら、覗くっていう行為は観客の「参加」にあたりそうです。
実際、川田さんは自分たちの手法について、「『現実』と『物語』の境界を揺るがす手法と定義を手に入れたことで、より奥行きのある企画をたてられるようになった」と語るのですが、その手法と定義というのがこちら。

「現実は語り部の介在により、物語になる」
「物語は“介在の余地・余白を与えること”により、現実になる」

「介在の余地・余白」って、ユーザーの「参加」によって物語を現実化すること、つまりは現実を異化すること、になりそうじゃないですか!


共産主義2.0」時代のブレヒト


じゃあ共産主義についてはどうなの? というわけです、が。


ブレヒトの野望って共産主義革命で、異化効果の目的は階級意識の強化だったそうです。
えー、そんなの演劇でやるのはキツくねー? せめて映画とか、いやテレビとかじゃねー? と思っちゃうところではあるんですが、それはさておき、もし仮にAR三兄弟がブレヒトっぽいんだったら、共産主義との絡みに関してはどう考えればよいでしょう。


ここで参考にしたいのが、最近話題の『シェア』っていう本です。

シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略

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  • 作者: レイチェル・ボッツマン,ルー・ロジャース,小林弘人,関美和
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2010/12/16
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これ、リーマンショック以後、ハイパー資本主義がどん詰まりを見せる中で人気が出始めた、カウチサーフィンとかebayとかいった「商品やアイディアをもっとみんなで〈シェア〉していこうよっていう色々なサービス」について書かれた本なんですが、ユリイカの「ソーシャルネットワークの現在」特集の小林弘人さんとの対談のなかで、濱野智史さんがこの『シェア』について面白いことを言っています。濱野さん曰く、こういった「〈シェア〉するサービス」は、「ネット技術をプラクティカルに活用して新しいある種の『共産主義2.0』みたいなことをやろうという発想」であると。


いやこれですよ。共産主義2.0!
えーだったら共産主義2.0時代のブレヒトがいたっていいじゃんかよー! って思っちゃうわけです。
で、それってAR三兄弟だったりしないのかな、ってことです。


んなわけない。って、多方面から言われそうですし、川田さんもそんなことは実際考えてないでしょう。
実際、これまでの作品ではまだまだユーザーを巻き込む力が少ないのも事実でしょう。
ただ、現実を拡張する物語に、より一層のユーザーを動員するソーシャルな仕組みが加わったとき、AR三兄弟は“うっかり”その新しいブレヒトの位置に居座っちゃう、そんな可能性を秘めているように思えるのです。


それに、濱野さんが言うように、たぶん共産主義2.0時代のブレヒトは、ものすごくプラクティカルな存在なんじゃないでしょうか。
つまりは、階級意識の強化じゃなくて、実際に階級なんてなくしちゃう。それに参与する限り、階級なんてなーい。
そんなことできんのかよって話ですけど、たとえば、セカイカメラを通して覗いた世界って、ちょっとそうなってません?
(ちなみに『シェア』では階級の代わりに評判がものを言うようになる、って書かれています。「評判資本」とな。)





なお、こういったことに近い活動をされているのは日本だとPort B、でしょうか。
前作の『完全避難マニュアル』には濱野さんも参加していましたし。Port BがAR技術を使った劇をつくることも、十分ありそうです。


ちなみに、こちらの対談ではPort B主宰の高山さんが「僕はもう演劇とは呼ばれていない演劇性を見つけたいんですが、それは内側にはないんですよ。外側でそれを見つけて、もう1回演劇に引っ張って来たいんです」と語り「演劇の外部」っていうことを強調されていますが、「共産主義2.0時代のブレヒト」って、ついぞ演劇の文脈からは登場しないんじゃないかなー、という気がします。


なにせプラクティカルでなきゃいけないわけで、川田さんも言うように、「アートとして作品を出した時点で、アートの文脈でしか伝わらない」わけですから。




え、ペニノですか。
ペニノは「アートであることの意義」を富士山の向こう側にちらちらと見やりながら、静岡は日本平に3ヶ月の山ごもり、6月の公演に向けて作業作業作業ですYO!
(吉)