『チェーホフ?!』は、「チェーホフ」でありえたかもしれない軌跡の数々?!

遅ればせながら明けましておめでとうございます。
21日、タニノ演出作品『チェーホフ?!』のプレビュー公演を見てきました。

こちらの稽古場レポート(しのぶの演劇レビュー :【稽古場レポート】東京芸術劇場チェーホフ?!』01/05水天宮ピット中スタジオ1 http://www.shinobu-review.jp/mt/archives/2011_01_13.html)でも紹介していただいているとおり、本当にぜいたくな作り方をされた今作。果たしてどんな作品に仕上がっていたのでしょう(※正確に言えば、「初日」ではないので「仕上がり」はもう少し後になります!)。多少事前に内容を知っていたとはいえ、久々にタニノの演出を外から見る機会、せっかくなので出来るだけ客観的に感想を書いてみようと思います。


単刀直入に言います。幕が開けたとき、そして観終わったとき、「…チェーホフ?!」と、本当にタイトルをそのまま言ってしまいたくなります。
これがチェーホフ?! どのあたりがチェーホフ?! いやたしかにチェーホフ?! えでも、ほんとにチェーホフ?!
こんな気持ちが渦巻きます。
この作品には、落ちぶれた女地主はでてきません。天真爛漫な妹も、やきもきする大学教授もいません。遠くで銃声が鳴り響くこともありません。そんないわゆるチェーホフらしい光景が繰り広げられることは一切ありません。リアリスティックな光景は一度も描かれず、ひたすら幻想的な光景が続きます。
かといって、タニノがチェーホフを跡形もないぐらい無理やり自分のものにしているわけでもありません。「ひとつの戯曲の解釈」という体裁をとっていないこともあるのでしょう、野心的に新しいチェーホフ像を提示しているわけでもありません。
なんていうんでしょう、この作品、すごく表現しづらいのですが、「チェーホフでありえたかもしれない軌跡の数々が連なっていくとどうもチェーホフらしいように見えてくる」、そんな印象なのです。ここでいう「チェーホフ」というのは、チェーホフ本人、チェーホフの作品、チェーホフをめぐる様々な言説、3層の意味になるでしょう。もしかしたらあの少年はありえたチェーホフ本人の姿かもしれない。もしかしたらあの女性は落ちぶれた女地主になりえたかもしれない。もしかしたら四大悲劇が喜劇たりえるのは、こんな狂気じみた幻想性のせいかもしれない。数々の非現実的な光景のなかに、たえずありえたかもしれない「チェーホフ」が提示されていく、そんなふうに思えるのです。
この劇、他の方々はどんなふうに感じるのか、とっても気になります。せっかくですから、多くの人に見てもらいたい――つくづくそう思ってしまうのでした。
(吉)