チェルフィッチュ岡田利規さんの演劇論『遡行 変形していくための演劇論』最速かもしれないレビュー


チェルフィッチュ岡田さん初の演劇論。うまい具合にタイミングがあって、1月22日の発売初日に買えましたぜ!

遡行 ---変形していくための演劇論

遡行 ---変形していくための演劇論


早速読んだんですが、「演劇論」っていう言葉の響きからくる何やら難しげでポエティックな感じの本というわけではもちろんなくて、スラスラ読めます。


タイトルにあるように、現在から順々に岡田さんが考えていたことを遡っていくスタイルになっていて、これがとっても読みやすい! チェルフィッチュを継続的に見ている人ほど面白く読めるのではないかしら。


で、思うところもあったので、せっかくなのでごく個人的なレビューを書いてみようと思ったわけです。スミマセン記事タイトルは半分釣りです・・・。この本についての優れた書評はこの後たくさん書かれるだろうし、あくまで個人的に、ね。



なんでレビューを書いてみようと思ったかというと、まず、この本にペニノのことがちらっと出てくるのですね(!)。それは2008年にチェルフィッチュが参加したドイツのHAUで行われた「TOKIO-SHIBUYA: THE NEW GENERATION」というフェスティバルにペニノも参加していたからで、そのときの岡田さんの日記にペニノやタニノと話したことがちょろっと出てくるわけです。ちなみにそのとき自分も、ちょろっと岡田さんにお会いしてます。


ただ、それがメインの理由ではなくて、えっと、正直に言いますと、ちょうどその頃から、チェルフィッチュの作品の見方がよくわからなくなっていた・・・、というのがあるからなのです。


自分は、たぶん多くの人と同じく『三月の5日間』でガーンとやられて、その後の『労苦の終わり』『目的地』や『クーラー』といった作品も興奮しながら観て浮き立ってたんですが、ちょうどドイツに行くちょっと前に上演された『フリータイム』を観たときに、「あれ?」と思ってしまったのですね。そして最近『現在地』を見て、ついに「どう見たらいいの・・・?」と困ってしまったのです。単純におもしろいおもしろくない、ということではなくて、見方がわからなくて困っちゃう、というのが正直なところです。おまけに当然のことながらTwitterのタイムライン上には絶賛するツイートがぽんぽん流れてきて、余計に困惑する。っていうか、わかんないのがさびしい・・・。そんな具合だったわけです。


だから、岡田さんの演劇論が出たと知り、しかもそれが、現在から過去を遡って思考の変遷をたどっていくスタイルで書かれているとなると、「ああんもう! あれはどういうことだったの!? こぉれは読まなきゃっ!!」とめちゃくちゃテンションがあがったのでした。演劇の本でテンションあがったのも久しぶりでした。


まあ、実はちょうど自分が2008年に就職して、どんどん舞台を見る本数が減っていってるという現状があるので、それで見方がわからなくなってる、というのがたぶん真実で、演劇を見る体力とか勘とかがにぶっているのだとは思います。最近露骨にカラダがエンタメを求めていますもの。サラリーマンならそりゃ、テレビでも映画でも、ビールの泡みたいな心地よさに溺れたくなるのです・・・。


でも、むしろそういう状況だからこそ、「芸術って、何なのよ?」という意識は絶えずありました。もちろんそんな高尚なものではなくて、さすがにそういう意識なかったらペニノやれないだろっていう程度のものだと思うのですが。


ともあれ、岡田さんの演劇論、興奮しながら一気に読んだわけです。


まずペニノとの関連で言うと、『現在地』と『エクスターズ』って結構近い地平にあったんじゃないか、とか、安部公房の『友達』で岡田さんがやろうとしたことは実はペニノの『ダークマスター』と同じことじゃないか、とか、ここには書ききれない、思いも寄らぬ発見がいくつもありました。


そして岡田さんの文章がとてもクリアなので、こちらの思考もものすごくクリアになりました。


この本から受ける岡田さんの印象は、「精緻で、真摯な猜疑心の人」。身体、言語。東京、日本、欧米。既存の演劇、芸術そのもの。そういったものを、肩肘張らずに、きちんと疑ってかかること。それができてるから、遡れるぐらいの積み重ねがある。それがひとつひとつ理解できるから、こちらもとってもスッキリする。それがとても心地よかった。


でも、ひかっかることもあったんですね。


それはどういうことかというと、岡田さんの考えていることが、あまりに芸術の「なか」のことのように思えた、という点です。そりゃそうだろ、演劇論なんだから、とも思うんですけどね。


たとえば、『わたしたちは無傷な別人であるのか?』ぐらいから、岡田さんが「負け組世代」の若者の当事者意識をふまえて作品をつくるのをやめた、と語っています。それと符合するように、より「観客」を意識するようになって、「舞台上に演劇を立ち上げるのではなく、観客の中に立ち上げるのだ、という考えに基づいて作品に取り組むことで、かえって何でも表象できるようになった」とのこと。


ただ、岡田さんが「観客」を意識するようになった、と語っているにもかかわらず、自分には目の前の舞台が遠くにあるように感じてしまったことに、どうしてもひかっかってしまったのです。


もちろん、岡田さんの言う「観客」に対する意識と、自分が感じてしまったある種の距離感というのは、演劇論と演出の好みの話、ぐらいレベルの違う話なのかもしれません。あと、えー、自分、かつて岡田さんの「若者の当事者意識」に勝手に共感していたところもあったので、そういう当事者意識が抜けたときに、ある種の寂しさもあって遠く感じちゃう、という、より一層卑しい理由によるものかもしれないっす・・・。


しかも、帯に「社会に対して芸術のできる〈働き〉とは何か?」とあるぐらいで、しかもその答えが冒頭に明確に示されているので、芸術の「なか」のことだけが語られているわけではもちろんありません。


なんですが、なんですが。


根がアングラなペニノにいる身としては、そういう芸術をもぶち壊す猥雑さ、みたいなのがほしいじゃないですか。ビールの泡をも吹き飛ばすぐらいうっひゃー、ってなるようなことやりたいじゃないですか。なーんて思ってしまったのでした。


で、身も蓋もないですが、そういうふうに思えてよかったなと思いました。ハイ。そんなふうにぐるんぐるん、堂々巡りかもしれないけど、思考がまわりました。それに、また岡田さんの作品を観たくなりましたもの。今度はまた違うふうに見えるかもしれない、っていう期待感が湧きました。とてもいい読書体験だったわけです。


ちなみに他にも、日常の身体の過剰さという一点で、それまでの演劇を華麗に乗り越えちゃうあたりの超クールな感じとか、ギリシアの丘の話とか、ハッとするようなことがたくさん書かれてたんですが、そのあたりは書ききれないのでぜひ読んでみてください。


というわけで! こちらはこちらで次の4月のペニノが、楽しみです。


って、そんな悠長なこと言ってるヒマなく、もう動き出してます。ぜひぜひ、楽しみにしてくださいませ〜。
(吉)