演劇論って何でしょう。

久しぶりに太田省吾さんの演劇論集『プロセス』を手に取ってみました。ずいぶん前に買ったまま行方がわからなくなっていたのですが、ついさっき机と壁のあいだに挟まっているのを偶然見つけたのでした。

プロセス 太田省吾演劇論集

プロセス 太田省吾演劇論集

太田省吾さんの舞台、私はついぞ生で見ることはできなかったのですが、タニノは何回か見たことがあるそうで、あのゆーーーーったりとした劇(映像で見ると余計にそう思えてしまう)に随分と感銘を受けたようでした。もっとも、タニノがそのとき話していたのは舞台美術へのお金の掛け方が半端ないとか、「作品そのもの」というより「製作のスタンス」に関することが主だった気がします。幾分記憶は曖昧なのですが、タニノと最近見た舞台について話すと「作品そのもの」の話題より「製作のスタンス」に話が及ぶことが多いので、たぶんその時もそんな話をしたのでしょう。

そんなことを思い出しながら目の前のこの「演劇論」というジャンルの書物を見てみると、なんだか不思議な気分になります。「演劇論」って、何のためにあるんでしたっけ。そんなふうに感じてしまいます。もちろん、演劇の方法論を記したもの、といえばその通りなのでしょう。それは時に新しい演劇の誕生を象徴するものであったり、もしくは「上演の手引き」代わりになったりするものなのでしょう。そう思いはするもののどこかモヤモヤしてしまうのは、おそらく「そんなこと知ってもなあ」という気分がどこかにあるから。そんな気がします。これは私だけのことなのか、それとも世の中的なことなのか、それはわかりません。あと、だからといって太田省吾さんの演劇論がつまらないとか、そういう話でもありません。

ただ、ぼんやりと今どんな「演劇論」を読みたいか、と考えると、どうもそれは文学(論)的な要素が一切ないものであるような気がします。それは例えば、村上隆さんの『芸術起業論』や桝田省治さんの『ゲームデザイン脳』のような、どこかビジネスの匂いのするものなんじゃないでしょうか。

芸術起業論

芸術起業論

ゲームデザイン脳 ―桝田省治の発想とワザ― (ThinkMap)

ゲームデザイン脳 ―桝田省治の発想とワザ― (ThinkMap)

限定されたバジェットのもと、どうやって集客に結びつけ、なおかつ観客にインパクトを残し、上演期間外をどのように過ごすのか。そんなことが書かれた本を、ちょっと読んでみたい気がします。私が製作に関わる立場にいるからなのかもしれませんが、それだけではない気がします。かつて松尾スズキさんが『ファンキー!』のなかで大人計画が歩んできた「小劇場すごろく」を振り返ってみせ、「紀伊国屋劇場、貸してくれませんでしたー!」と叫んだとき客席に大爆笑が起きたように、私含め消費者は「明け透けな内部の経済的な事情」に強く反応する気がするのです。それはおそらく誰もが経済的な事情にとらわれていて、そういう観点で書かれたものに共感しやすいからかもしれません。

さて、太田省吾さんの「演劇論」です。ふとタニノが韓国の人気グループ「KARA」のことでニヤニヤしていたのを思い出して「尻吹きの悲しみーー唐十郎の〈劇〉について」という一節を読んでみると、まあこれが面白い。身も蓋もありませんが、面白いものは面白い。

「〈お尻を吹く〉という行為を考案し、それが馬鹿げたことであるかどうかという判断を無化する切実さ、そして、そのことによってやっと手に入る〈情熱〉というもの、そしてそれを手放すまいと〈一生けんめい、ひたすら、やりつづける〉という持続に費やす筋力が〈悲しい〉のである。」(p.247)とな!

(吉)