ちょっと前に聞いた寺山修司の話がすごかった件。

もう4年ぐらい前のことなんですが、寺山修司のすごい話を聞いたことがありました。そんなことを最近ふと思い出して、いろいろググってみたんですが特に出てこなかったので、せっかくだしここに書いておこうと思います。


まだ私が学生だったころ、天井桟敷の森崎偏陸さんにお会いする機会がありまして、これはその偏陸さんに聞いたお話です。

偏陸さんもすごかった。


偏陸さんは、天井桟敷のメンバーで作品に出演したり映画の助監督をやられたりしていた、「寺山修司の弟」とも言える方です。
(ご参考:【旬 People】森崎偏陸さん 寺山修司の弟、映画「へんりっく」主演 http://www.zakzak.co.jp/life/zakgak/news/20091008/zgk0910081620003-n2.htm


たとえば寺山修司の映画に『ローラ』という、スクリーンにスリットがあって、映画のラストでそこから人が飛び出してくる、まるで映画の中から人が飛び出してきたかのように見える作品があるのですが、偏陸さんはその「飛び出す役」を何年もやってきたそうです。って実際この作品見たことあるんですけど、本当に最後に出てくるだけでずっとスクリーンのなかで待機していなきゃいけない役なので、「あれずっと俺やってたのよ」って聞いたときにはなんだかそのストイックさに、なんともいえない大人の渋さを感じたんでした。


どうして偏陸さんにお会いする機会があったかというと、偏陸さんが下北沢で個展を開いていたんですね。で、隣の学科に寺山修司を研究している人がいて、その人に行こうぜって誘ってもらったんでした。


ちなみにその偏陸さんの個展というのも、相当逝ってしまっていて(もちろんイイ意味で)、自分のおペニスさんをひたすら撮りまくった写真展だったのですが、たとえば「啓蟄」みたいなテーマの作品で、雪が降った日にその雪を自分の股ぐらに盛って、その雪の間からまるでフキノトウみたいにひょっこり顔をだした亀頭を撮った写真。もう見た瞬間にゲラゲラ笑うしかなかったわけです。あんなにかわいらしい亀頭は初めて見ました。


一番ヤバかったのは、齢九十にもなるお父上とのツーショット写真。もちろん、偏陸さんとお父上のペニスのツーショットです。なんだか精神分析の世界の父殺しとか去勢とかっていうワードがどうでもよくなっちゃうような地平を感じました。実の父とあんなに仲良くペニスを寄り添わせることができるなんて、ちょっと感動的ですらある光景でした。

ホバークラフトを使った劇作品って・・・!


って話がそれましたが、そのとき偏陸さんに聞いた寺山修司がオランダで上演した芝居の話がすごかったんです。ようやく本題です。


天井桟敷は何度かオランダ公演をやっているようですが、そのとき寺山修司が何をしたか。


ホバークラフトを使ったんですね。
あの浮くヤツです。それでスイスイ動くヤツです。


それで客席と舞台のユニットをいくつもつくったそうです。聞いた感じでは、下の図みたいな感じで。

この客席と舞台のひとつひとつがホバークラフトで浮いていて人が動かすことができると。それで客席の幕の部分と舞台の幕の部分を合体させて同時に開けば、「宙に浮いた劇場」ができあがってしまうというわけです。


幕が閉じるごとに、この客席と劇場のユニットをホバークラフトですいすいっと動かして組み合わせを変えていったそうで、そうすると観客は幕が変わるごとに、まったく違う舞台装置の舞台を体験することができたんですね。


で、オチとしては、最後に幕が開くと、客席のユニット同士が向き合っていて、「あらま!」となると。


ハイ、正直、すげーっていう興奮とともに「えーーーーそれいくらかかってるのーーーーっ」ってなんだか怖じ気づいちゃう感じでした。思いつくのもアレですが、それを実現しちゃうのがすごい。

劇構造としてもおもしろそうな作品。


実際に体験してないのでアレですが、これ、物語の時間を飛ぶように客席がタイムトラベルするような感覚があるんじゃないでしょうか。もしかしたら舞台装置のすごさ以上に、その体験がおもしろかったりするかもしれません。


それこそ、ドラえもんのタイムマシンみたいに、客席はタイムマシン、舞台装置は行き先、客席と舞台装置以外の空間は、この絵の時計がウニウニしたような空間。こんなような感覚があるんじゃないでしょうか。


たとえば、下の図みたいに、客席1が舞台1、舞台2、舞台3と物語の時間A、B、Cにあわせて進んでいったとします。

時系列通りに進むパターンです。でも、客席1が舞台1を見ているとき、客席2は舞台1を見ることができない。必ず別の時間の舞台を体験している。


つまり、客席1のひとは、舞台1、2、3と進んだとしても、たえず「他の客席は自分たちとは何かしら違うパターンで物語を体験している」ということを意識してしまう。そんな仕掛けになってるんじゃないかということです。


言ってしまえば偶有性というか、パラレルワールドの存在を意識してしまう。ありえたかもしれない体験をつい意識しちゃう。


なので、最後に客席同士が向かい合って終わる、というのは、パラレルワールド同士が出会う、ということにもなりそうです。
それはつまり、世界の消滅を招いてしまう。だから、上演はそこで終わる。


まあこれはけっこう勝手な妄想が入ってはいるんですが、こう考えてみるとこの作品って、単純な装置としての面白さだけじゃなく、劇の構造のあり方として、とっても面白そうな気がしますね! っていうか、体験してみたかったYO!


ってこれ有名な話なんでしょうか。大体作品名はなんていうんだろう・・・。寺山関連の本はちらほら読んだことあるぐらいなのですが、どこかに載ってるのかな。


少なくともグーグル先生からは冷たく「知らん」と言われてしまったので、ここにログとして残しておこうと思ったのでした。(ご存知の方いたらtwitterででもおしえてくださーい!)
(吉)